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大須賀淳
2024.5.27 21:23その他ニュース

「合理」と「合利」の違い

昨日の記事からの関連をもう少し。

 

極めて複雑な現代社会においては、何かと「合理的」な事が良いとされています。

 

私も「合理的」な事が大好きな一方、「合理」の意味・解釈が世間一般で錯綜していないか?と思う事が少なくありません。

 

例えば、コスパ・タイパの文脈で語られる事柄って、文字にするなら「合利」とすべきニュアンスで語られている場合がとても多いと感じます。

 

(益)」は、通貨にしろ物々交換にしろ行動にしろ、「〝価値〟を短期的に交換・流通しやすくした形の一つ」です。

 

「理」(ことわり)は、即物的な「利」も含めたあらゆる価値が適切に流れるための「インフラ」とでも言うべき、もっと根本部分に存在するもの。

 

理への整合を追求すれば、むしろ短期的には適切な「利の放出」(コスト)が必要になる場合も多く、それこそが連続性、持続性を担保する姿勢そのものです。

 

人が生まれ、育ち、働き、また生み出しという「理」を短絡させれば、非正規労働や少子化が進むのは当然ですし、さらにコロナ騒動下においては「しかるべき時に死んでいく」という理さえ短絡された、「感染しないという利」のみに固執した末の、歪んだ生命至上主義までが(ウィルス以上に)蔓延しました。

 

理という水路のそこかしこが詰まっている状態の所にいくら水を流しても、ある所は溢れて水浸しになり、またある所は干上がり、どちらにせよ行き着く先は作物の育たない「不毛」です。

 

新自由主義の最大の問題点は「合理なき合利の追求」ですし、あらゆる「書きたい題材」の足元には、合利に溺れた餓鬼道のような闇を感じます。

 

これをふまえて、どんどん合理的に物事を進めて行きますよ!

大須賀淳

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